非実在物理空間

 

 

この作品は、鑑賞者の位置から壁の奥にも空間が広がっているような光景をシミュレートし、実際にそれを投影するインスタレーションである。人が見ている光景に対して、本来虚像である空間を、正しく視界をシミュレートした形で同時に映すことによって、質量と認識への再考を投げかける。

この頃、映画などにおいて、コンピュータグラフィックス(CG)がまるで「嘘」の代名詞であるかのように扱われるのを時々見かける。実際、CGというものは通常目に見えないし、触ることもできない。たとえ(疑似的に)見えた触れたとしても、HMD等のディスプレイ越しではなく、質量をもって現実に存在することに意味があるという意見は、私にとっても大変うなづける。しかし、私は最近、「CGで描かれる世界は実在し、コンピュータはそれを見るためののぞき穴のようなものを定義しているだけなのではないか」というようなことを想像することがある。

我々が認識しているこの世界は、目や耳などによって知覚された情報が、「私」という、世界とはこういうものであるというような主観によって再構成されることで「現実」として認識されるものであり、物理世界が実際に目にするとおりに実在するかは、実は確かめようがないものである。もしかすると、同じ景色でも別の人間から見ればまったくもって別の景色が広がってい可能性もある。屁理屈のように聞こえるかもしれないが、私たちは、私たち自身の認識と実際の物理世界の構造が異なっている例を錯視などで知っている。また、先天的に目が見えない人が、視力を初めて得た際には、形や色、奥行きなどを全く認識できない、というような話もある。

このような、「知覚情報」を基に、「私」が世界を再構成し、それを「認識する」過程と、「データ」を基に、「物理世界を模した数学的モデル」がCGの世界を再構成し、それを「描画する」過程に、私はとても似たものを感じる。この作品で映し出されている空間は物理世界とは別のものである。しかし、HMDのようなディスプレイではなく、プロジェクターによる物体からの反射光によって鑑賞する形をとることで、できる限り質量をもつ物質と似た過程で知覚できるようにしている。また、鑑賞者の位置を捕捉し、その情報から視界をシミュレートするという手順により、コンピュータが世界を、人が普段認識しているような形に再構成する際に、鑑賞者自身の「私」という主観を組み込むことを試みている。CGは嘘であるといわれているというような話をしたが、もし、この作品によって映し出されている空間が、コンピュータ(あるいはもっと別の世界)で定義された実在の空間だとして、これを見ている人が、その世界を再構成するための「私」になるとしたら、そこにどんな違いがあるだろうか。

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